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「心配りする心で信心をせよ」

   金光教教典の理解Ⅱの中に近藤藤守の伝えという項があり、その中の29に「金光様は心配りする心で信心せよ』とも教えられた」とあります。

私は、74歳ですがおかげ様で足腰はしっかりしていて駅の階段も軽々上がれます。電車に乗るときはいつも出入り口近くに立つようにしています。

2月の初めのことですが、電車に乗った時に押されて中ほどまでいくはめになりました。私の前に未就学児、3~4歳ぐらいと思われる女の子が座っていました。その子が、私のもものあたりをつついて来ました。そして、席を立ち譲ってくれました。私は元気なので、それを断るという選択肢もありましたが、その時は、せっかく譲ってくれたのだからと思い「有難う」と言って座りました。その子はとても嬉しそうな顔をして、近くに立っていた母親の足に抱きつき母親の顔を見上げていました。母親も嬉しそうな顔をしていました。  

あの時に断っていたら女の子の満足そうな笑顔ではなくてきっとがっかりした顔を見たことでしょう。その日に『現代学生百人一首』という作品集が届きました。その中に女子中学生の「電車内席を譲るが断られ下車駅同じ長いふみきり」という短歌がありそれを目にした時に、私は良いことをしたのだと確信しました。席を譲られてそれを断った老人は女子中学生がどんな気持ちになっただろうかなどまったく考えていません。

 「断る」というのはわざわざ立って頂くのは申し訳ないという「心配り」だと言うかもしれませんが、本当にそうでしょうか。それは、相手への心配りではなく「自分はまだ元気だ」「そんなに老けて見えるのか、ああ」など自分中心の思いになっていて、多くの人が見ている中で、勇気を出して席を譲ってくれたのに断られた相手の気持ちは考えていないでしょう。「心配り」というは何かをしてあげたりされたりする時には、まず「私が相手の立場だったら」と考え「自分がしてもらえたら良いな」と思うことを相手の方を祈りながらさせていただくことだと私は、思います。

 

(3月12日 木澤文夫)

 

※3月より祭典の後、先生の教話に先立って輔教の方々が交代で、教典の中から印象に残っているみ教えについて、短くお話することになりました