子どもが幼かった頃、床にクレヨンでお絵描きしたり、思い切りドリンクをこぼすのが日常茶飯事でした。そんな時も頭ごなしに叱らず「一緒に床を拭こうね」と。すると必死になって掃除してくれます。"こんなことでもないと、こんなに必死に床を拭くことはないもの"と自分に言い聞かせます。するとイライラや怒りは"幸せ"に変わります。
何かを割ってしまった、そんな時は尚更。飛び散る破片で怪我をしないよう普段目の届かない隅々まで徹底的に吸い取り、ふきとります。モノは失ってしまったけれど、床は隅々までピカピカ。ともすると思いがけない大切なものが見つかる時さえあるのです。これも神様からのご褒美"幸せ"です。
先代の教会長である父がよく口にしていた、この"思い替え"をして行くと、イライラはウキウキに変わり、怒りは幸せにかわって行きます。こうしてどんどん日常の幸せ探しの天才になりたいとの欲が出てきます。洗濯物が山ほどある時も、"ふぅ~、もうなんでこんな毎日たくさんたくさん…、嫌だなぁ"と思ってしまいます。
そこで早速、"思い替え"をします。洗濯物がたくさん出るのは家族が元気でいてくれればこそ!そう思った途端、"嫌"は"幸せ"に変わります。すると一枚一枚丁寧に感謝して干したくなるんです。その洗濯物を見ながら、昨日はこんなことがあったのかな?あんなことがあったのかな?と思いを巡らし、暑い中、寒い中、頑張って通勤通学してご苦労様、気持ちよく明日も迎えてもらわなきゃ、って。ついでに、自分の顔の皺もこうして伸びればなぁ~なんて思いながら、気合を入れ洗濯物を伸ばし、そんな事を考えてはクスッと笑って楽しくなってきます。
ここで、先代の大場正範教会長のご本、"神と共に人と共に"の下巻の中に、"喜びを探そう、数えよう"という教話がありましたので、少し引用させていただきます。
教会にこられた夫人がある日「私ほど不幸せ者はありません。幸せのひとかけらも残されていません」とヤケ気味に訴えられました。以下は、その人と私との言葉のやりとりです。
「今幸せのかけらひとかけらも残されていないと言われましたが、本当にそうでしょうか。よく考えてみてください。何か残されているでしょう」「そりゃ、少しは残されているかもしれません」「それは何でしょうか」「そうですね。マァ親が丈夫な体に産んでくれたので、こんな大変な中でも健康で過ごしていること位でしょうか」「ワァーすごいものが残されているじゃありませんか。ところでもう一つ位ありませんか?」「もうありませんよ」「そう言わずに探してみて下さい」「そうですね。家内中仲良く暮らしている事でしょうか」「これまた素晴らしいものじゃないですか」「もうありませんよ」「結構ですよ。今日はこの二つで・・・。残されているものは、ニつとも大変なもので、人間としての幸せの半分位を占める量と重みがあります。今日からその残されているものを見つめて、そこを感謝するようにして下さい。そうすれば、喜びが喜びを生むというか、喜ばしいことが探し出されますよ。明日は三つ、来週は四つ、来月は五つと増えていきますよ。きっと・・・」
私の言ったことを耳に留めて下さってか、数日後、参拝の折「こんな喜びを見つけました」「幸せと思う事の数がふえました」と言って下さいました。その時のお顔!明るさと和らぎが、そこにうかがえました。――――との教話を残されています。
二代金光様は「八寸のものを一尺にも喜ぶ者には、足らぬ所は神が足してやる」と申され、三代金光様は「有難い有難いとばかり思う人には、有難い事ばかり出来てまいります」と教えてくださっています。
このように、幸せを、喜びを探し出し、数えていける幸せ。
正に、御教えにある「おかげは和賀心(我が心、和らぎ喜ぶ心)にあり」なのです。
幸せ探し、一日一つずつ毎日の小さな幸せを書き溜めて、感謝と御礼の心を忘れず、心豊かに、神様と共に生きていきたいと思います。(綿引みづほ)