荻原須喜の伝え12
丑の年、痛いのが治ったのがありがたいのではないぞよう。ま
先月の半ばごろ、知人より103歳の方が出版した『随筆集103歳の夢』という本が届きました。作者は、この本の中で「ユダヤ系米国人サムエル・ウルマンは『青春とは』という本の中で、『人は夢を失ったときに老いる』と書いている。私もこの説に賛同する」と言っています。作者は、「現在歩くのが不自由だが、奇跡を起こして日光の神橋から滝尾神社に通じている石畳の長い道を自分の足で歩くことが、今の夢で、その夢が叶うことを願ってリハビリに励んでいる」と述べています。
このことを聞いて皆さんは、どんな感想を抱かれるでしょうか。
ところで、教祖様も、色々な方に、健康の有り難さや健康に過ごすようにご理解をしています。
「体の丈夫を願え、体を作れ、何事も体がもとなり」(食後訓)、「大酒、大食は絶食の元」「元気だからといって、体に無理をさせてはいけない。体は大切にしなければいけない」 、「熟睡できないと明日に障る、明日のために熟睡できる稽古をせよ」等などです。
今から60年ぐらい前、私がまだ十代のころ植木等の「分かっちゃいるけどやめられねぇ」(スーダラ節)という歌がはやっていました。ふざけているような歌ですが、私の人生を振り返ってみると健康に関するみ教えばかりではなく、この「分かっちゃいるけどやめられねぇ」の積み重ねのようです。
また、「おっしゃることは分かるけれど、どうすれば良い」も多いように思います。
例えば、「熟睡できないと明日に障る、明日のために熟睡できる稽古をせよ」と言われても「熟睡できる稽古」について「何々をせよ」がないので自分で考えるしかありません。
まだ、良い方法が見つからず「熟睡」できない日がいまだに多くあります。
これからも、試行錯誤を重ねながら、教典の市村光五郎(2)の伝えにある 「53 病の治るほどありがたきことは、もうほかになし。これまでは痛き時には神に信心いたし、痛まぬときには信心なし。これからは達者の願い。痛まぬ時、信心第一。… 」「28 痛き時はお願い参り、痛うない時が信心参り」の「信心参り」が出来るよう健康に気を配りながら信心の稽古をしていきたいと思っています。そうすれば冒頭の方のように元気にこれからを過ごして行けるのだと思います。(木澤文夫)