物事の最重要度や最優先度を表現するときに「一丁目一番地」という表現を用いることがあります。たとえば政治における一丁目一番地は政権の国民にたいする信頼度であると思いますが、いま政界は裏金問題でこの政治の一丁目一番地が大きく揺らいでおり大きな混乱が生じております。では信心の一丁目一番地とは何でしょうか。
私は1961年に金光教の教会にお参りを始めましたが、当時ご本部に高橋正雄先生という立派な先生がおられました。先生は1930年代から1960年代にわたって3度も教監を務められ、教団をリードされた方と伺っております。高橋正雄先生は自ら山に入ってご修行もされる求道者であられ、数々の著作を残しておられます。先生の著作集もいろいろ読ませていただき、著書を通じて先生の御信心に触れ、信心の何たるかの一端を学ばせていただいたと思っております。
前置きが長くなりましたが、今日は私がお道の刊行物で読みました高橋先生にまつわるエピソードをひとつ紹介させていただきます。ある時一人のご信者が高橋先生にこれまでのご自身の信心の経歴や、いただいてこられたおかげについて、るるお話をされました。高橋先生は一通りお話を聞かれた後、おもむろに「あなたの手元の信心は今どうなっておりますか」と質問されたとのことであります。私は、高橋先生のこの鋭いご質問に、これは自分自身に投げかけられた問いであると理解させていただきました。「信心が手元のところは今どうなっておりますか」とのご指摘は、過ぎ去った事や、未来のことよりは今の自分の信心のあり様が大切とご指導いただいているものと思います。
信心の実践においては種々の局面があり状況によりますが、基本的には一丁目一番地は「今、自分の手元の信心がどうなっているか」ではないかと思う次第です。私自身60年信心をさせていただいて、それにふさわしい今の自分になっているかどうか問うておりますが、まだまだ道半ばとの思いを強くさせていただいております。歳を取ってきますと残り時間が少なくなってきたことが実感されますが、教祖様は歳をとってもできるのは信心だけであると仰っています。このお道は「向こうは開け放し」であるとのみ教えもあります。まことに希望に満ちたお道にご縁をいただいていることに幸せを感じる次第です。
「手元の信心」を「信心の一丁目一番地」といただき、今の自分と信心を常に振り返り、倦まず弛まず生神金光大神様のお道を歩ませていただきたいと心を新たにしております。(川治喜市)