お道には、読むだけで腹落ちする素晴らしい御教え(教祖ご理解)がたくさんありますが、「信心は年が寄るほど位がつくものじゃ。信心すれば一年一年有難うなってくる」との御教えは、私自身中々理解出来ないものでした。何故かと言うと、御教えの中の「位」という言葉がどういう意味なのか今ひとつ理解が進まずにおりました。そうした中、昨年8月に教会長先生から背中を押して頂き、輔教研修会に65歳にして初めて参加させて頂きました。御本部での研修前の僅かな時間に教徒社に寄らせて頂き、何気なく教典をめくっておりましたら、目に飛び込んできたのが、この御教えでした。そこには、何と前文があったのでした。「賃(金)をとってすることは、若い時には頼んでもくれる。年寄っては頼んではくれぬぞ」とのお言葉があったとは、自らの不勉強を猛省いたしました。
日本も超高齢化社会と言われるようになって久しいのですが、これまで60歳と言われた定年はいまや65歳となり、私の会社の仲間も定年を迎えることとなりました。定年後に何か仕事をしたいと思っている人は多いようです。では、どのような仕事が可能かということになると突然迷ってしまいます。今までの職場で給料は下がっても、定年を延長して働きたいという人もいるでしょう。あるいは新しい仕事に就く、さらに新しく仕事を始める人もいると思います。また、ボランティアで役立ちたいと思っている方も多いと思われます。
しかし日本では重要な職、給与の良い仕事に空きがないのが現状です。そうなると給料は低い別の仕事で働き続けるということになります。日本のサラリーマン人口は社会人労働者の約90%と言われているわけですから、これからも毎年同じような課題を抱える人が次々に定年制という制度により生み出されることになります。またボランティア活動も、趣味に生きる事を選択した場合も、朝から晩までその生活に浸りきるということは大変難しいことです。このように考えると定年後の人生は誰にとっても大変難しい面を多く持っていて、楽な定年後は無いと言っても過言ではなさそうです。しかし、いかに楽であろうと、そうでなかろうと定年後の二十年、二十五年を過ごして行かなくてはなりません。その時期を悶々と不平不満ばかり言って暮らせば、家庭は暗くなり夫婦の間に溝が出来ます。つまり定年後の問題はどうしても解決しなくてはならないのです。
私が最近、思うことはサラリーマン生活で身についた無意識のうちに勝った負けた、追いついた追い越されたという競争原理の中で幸不幸を判断してしまう、常に他者と比較する癖がついてしまっているという事が問題なのではないかということです。
定年後の難しさは人と比較する癖が抜けないから、人と自分を比較して幸不幸を論じる生き方になってしまう。そこに心の安定はないと思います。
そこで大事なことは、定年になって後の生き方をして心の安定を図るということではないでしょうか。それは、信仰によってしか得られない道なのではないかということです。神社仏閣参りとかそういう信仰ではなく、心を磨く、信心生活を進めさせて頂くということなのではないでしょうか。例えば人の役にたつことに生き甲斐を求めるようにすれば、今している仕事、ボランティア、趣味も意味を持つようになります。そうすれば如何なる場所でも喜びに満ちた生活が出来るということです。出来れば、65と言わず40代、50代と早いうちから教会に足を運ぶことで、心が落ち着き、お道のお話を聴くことで心が洗われ、力がみなぎってきます。そうすると年が寄るほど位がつき、一年一年ありがたくなってくるということだったのです。
改めて御教えの深さ、有難さを学ばせて頂きました。(綿引宏行)