みな、病気の名前や病気のもとは不思議によく知っているが、おかげの受けられるもとを知らない。病気のもとよりは、おかげのもとをたずねてみよ。(尋求教語録34)
今年の教会新年会に参加された方が披露した老人の特徴を詠んだ川柳の一節に「趣味 病気」と言うのがありました。
お年寄りが、数人集まると、話題は、病気や孫のことなどの自慢話が比較的多いように思います。例えば、一人が、「夜中にトイレに行くために二回起きる」というと他の人が「二回ぐらいなら良いですよ。私は三回起きますよ」とか「私は薬を毎日6種類飲んでいる」と言えば、他の人が「6種類だけですか。私は10種類飲んでいますよ」という具合です。心あたりは、ありませんか?
教祖様の時代にも似たようなことがあったのかも知れません。「尋求教語録34」(片岡次郎四郎師著)に「みな、病気の名前や病気のもとは不思議によく知っているが、おかげの受けられるもとを知らない。病気のもとよりは、おかげのもとをたずねてみよ」とあります。
病気は、健康の有り難さを理解させ、信心するきっかけになるものです。
病気が治ったら、それで終わりにしてしまうのではなく、更に信心を深めていくことが大事なのです。おかげに関して「尋求教語録」では、「自分の思うとおりを聞いてくださるのがおかげとは限らぬぞ。死んでおかげの者もあり・・・」と厳しいお言葉もあります。
教祖様は「おかげ」という言葉を幅広く使っています。「信心の有無にかかわらず、天地の間に満ちているおかげ」「信心して受けるおかげ」(自分の願いが叶うこと)等。
「尋求教語録」には「金光様は喜びの道を開いてくだされたのじゃから、それをご信心申す者が、喜ばぬつらい顔をして日を過ごしてはならぬ・・・天地のような広い心にならなければならぬ」とあります。
私は、おかげのもとはこの「喜ぶ」心にあると思います。病気を、自分の信心を見直すきっかけとして何があっても「喜ぶ」心を持って過ごせるように信心の稽古をさせて頂きたいと思っています。