教祖様の教えには江戸末期の岡山・備中の国のお百姓さんであった教祖様が日々の生活の中で体験されたことがたとえ話としてよく出てきます。そのたとえ話ももうしばらくすると、おっしゃっていることが分からない、体験したことがないという人も出てくるんだろうなと思います。
私がつい最近体験したことで全くその通りだなと思った教えがあります。
天地は語る21
願う心は神に届くものである。天地金乃神は、くもが糸を世界中に張ったのと同じことである。糸にとんぼがかかればびりびりと動いて、くもが出てくる。神も同じことで、空気の中にずっと神の道がついているから、どれほどはなれていても、拝めばそれが神に届く。
私は教内の友人たちと一般社団法人ひかりプロジェクトというボランティア団体を作って、自然災害に遭われた被災者の方々の支援や地震や津波、また大雨災害に備える防災講座などを行っています。
このお正月に能登半島地震が起きて、その被害状況が分かって来ると、私たちも被災者支援の活動を始めたいと願ってきました。
東日本大震災の時はまだ若かった私も(と言っても還暦直前でしたが)今や72歳。メンバーも割と年齢が高い方々です。ですから、がれきの撤去などは程度によりますが、若い方のようには行きません。でも、何かお役に立ちたい。少しでも人助けしたい。そんな思いでした。
東日本大震災から13年が過ぎました。あの時、ここにおられる方々も何度か気仙沼を始め、被災された土地へ行って、いろんな活動をしました。行かれた方はよくご存じですが、支援と言ってもいろんな活動があります。ボランティアというと家の片付けやがれきの撤去、炊き出しなどが思い浮かぶ人も多いでしょうが、仮設住宅ができてからはどうしても年配者は家に引きこもりがちになります。そういった方々を集会所に引っ張り出して、気分転換を図ってもらう。いわゆる寄り添い支援です。お茶っこと言ってお茶を飲みお菓子を食べながら雑談する、歌の会、ゲーム大会、餅つき大会、手芸の会、落語の会…いろんなことをやってきました。
能登半島という所、半島に沿って真ん中が山脈になっており、平地は海のそばだけでそれも広いところは少ないです。今回、山脈に沿って高い所を通した道路や海沿いの道があちこちで崩れ落ちました。3月に行った時も、のと里山海道という自動車専用の道路もあちこちでがけ崩れが発生し、仮の道を道路の端っこに造り、片側通行になっていました。
そんなことで、初期の段階でも緊急の自動車がなかなか通れないということがあり、国や県はボランティアに来ないでくれということを盛んに言いました。最初は、それも仕方ないのですが、それが効きすぎて、今もなんとなく行くことが憚られるという雰囲気があります。
さて、話を戻して、東日本や熊本地震ともまた違う状況の中で、何とかボランティア活動ができないかと考えました。
能登半島は東京から遠く、日帰りで行くわけには行きません。しかも、被害の大きい市町には上下水道などインフラの復旧が遅く、宿泊施設も使えません。ですから、自前で拠点を持つしかないと思いました。それも被害の少ない富山県側の石川県に近い場所です。それと関東始め、数は少なくても広くボランティアを受け入れるには、ひかりプロジェクトだけではできません。
東日本大震災の時、気仙沼教会をベースに活動させてもらったわけですが、今考えると本当に大きな働きでした。大崎教会長の田中元雄先生が当時、金光教首都圏災害ボランティア支援機構の代表をされており、地震が起こってすぐに動き出されたんですね。気仙沼教会を拠点に決め、本郷の金光センターから毎週末に車を出し、ボランティアを送り込んで、現地に駐在者を置き活動されました。
それを知っていたので、この支援機構と一緒に活動させて頂きたいと願いを立てて、当時現地で活動した大崎教会の田中真人先生を1月の中頃に尋ねました。どうしたら支援機構と一緒になってやれるだろうかと。これはトップの横浜西教会の山田信二先生に働きかけるしかないということになりました。さっそく、電話やメールなどで当方の思いを伝え、一緒にやらせてくださいとお願いしました。支援機構の方でも、ちょうどどういう形で支援活動をしようかと検討しておられたようで、他のメンバーの方々にも話をされ、急遽ズーム会議を持ちました。
一方で、1月の早い段階で能登半島に物資をもって行った方もいます。向島教会の菱田正樹先生です。気仙沼で子どもたちに向けドリームキャンプを一緒にやってきた仲間です。親族の方が七尾市にある能登島にいらっしゃるというので、車で行かれたそうです。直接様子を聞かせてくださいとお願いし、訪ねて話を聞きました。マスコミで知る以外のいろんな情報を得ることができました。
何度か支援機構と打合せをする中で、富山県に拠点を設けることが決まり、富山教会長にお願いして拠点となるべき家を探していただきました。その下見や被災地のボランティア活動を取りまとめている七尾市の災害ボランティアセンターも訪ね、今後の見通しなども聞くと共に被災地そのものの状況を自分たちの目で見るために3月8-10日現地へ行きました。
そして、拠点も射水市に決まり、七尾市や内灘町で活動を始めることにしました。しかし、石川県ではまだ基本的に県のボランティアに登録し、募集案内を見て応募し、受け付けられた方が金沢からのボランティアバスに乗って現地へ行くという形です。バスに乗っているだけで2,3時間かかります。最近は直接募集をするところや、宿泊できる体育館やテント村をベースに活動するケースも出てきましたが、まだまだボランティアの数は少ないです。私たちから見れば、どうしてもっと行きたい人を受け入れないんだという思いが強いのですが、受け入れ側にもいろんな事情があるのでしょう。
3月初めに現地調査に行った段階から、少しは進展がありましたが基本的に変わっていません。そのような中でボランティアを募集して送り込むことができるのかという疑問が出ました。東日本の時のように応募して、その日に行けば何かしらお手伝いができるという状況ではないのです。
しかし、じっと待っていても何も進みません。「動き出さなければ、何も始まらない。動き出せば、何かが起こる」ウォルト・ディズニー
別に奇跡が起こるのを待つということではありません。現地へ行って、いろんな方と出会えば、いろんな道が付いてくるという話です。東京でいろいろ考えていても始まらないと思いました。
ここまでの話を聞かれると、何か一人で奮闘して取り組んでいるような誤解を与えているかもしれません。ひかりプロジェクトの仲間を始め、いろんな方々の努力と協力、支援がありました。
何とか活動を始めたいという私たちの願いに応えて、関係者の間で根回しして頂いた先生方、拠点を設けるについて不動産屋さんにあたって下さった富山教会の三浦先生、現地で必要な車を提供して下さった所沢教会の嶋田先生、ボランティア呼びかけのポスターのイラストを描いて下さったイラストレーターおくはらしんこさん。ひかりプロジェクトの募金呼びかけに応じて支援頂いた多くの方々やお教会。そうした多くの方々の思いを受けての活動だと実感しています。
この19日から25日まで富山・石川に行ってきました。まずは、拠点その名も「こんこうボランティアハウス」の開設準備です。一通り寝泊まりできるよう準備をし、23日には山田先生を祭主にお迎えし、御用成就祈願祭を仕えて頂きました。22と24日は七尾市ボランティアセンターで家の片付け手伝いや災害廃棄物の置き場への搬送などをしてきました。どのお宅でも、とても感謝され、大変でしたねというと、和倉温泉にあるおうちの方は、「地震のあった日、泊り客が浴衣、丹前姿で家の前を避難所に走って行くのに寒くてガタガタ震えていたので、毛布を貸してあげたのよ」など、その時の様子を話して下さいました。金光教の信越教務センターの所長とも話し合いの場が持て、輪島での炊き出しなどを計画してそこにお手伝いのボランティアに来てもらうよう呼び掛けたいと思います。
「願う心は神に届くものである」最初の教祖様の言葉です。「どれほどはなれていても、拝めばそれが神に届く」これをかみしめながら、微力であることを意識しながら、出来るところで取り組んでまいります。(藤原眞久)