先日10月5、6日とご本部参拝に行って参りました。お天気にも恵まれ、心より楽しく有難い参拝をすることが出来ました。 毎年秋に団体参拝を行なっていますが、今年は19名と、年々少なくなっている現状です。 さて、果たしてこの参拝はどんな意義があるのでしょうか?...
大西秀の伝え「人にはできるだけのことをしてあげ、人に物をやりたくてしかたがないという心を持ち、自分だけよいことをしたいというような心をもつな」と教えられ… 私が、まだ、現役の教員をしていた頃の話ですが、今でも似たような人がいるかもしれません。...
金光教祖ご理解74 「かわいいと思う心が神心じゃ」 皆さんもよく聞かれたみ教えだと思います。岡山弁でかわいいというのは、かわいそうという意味です。街で可愛い年頃の女性を見て、男性が「あ、可愛いな!」と思うのは神心ではないんですね。 このみ教えは短いので、そのもとになっていると思われるのが尋求教語録168にある次のご理解です。 ...
本日は、教祖様と神様が初めて出会った時のことについて触れ、あらためて信心の基本姿勢を頂いてみたいと思います。...
教祖様の教えには江戸末期の岡山・備中の国のお百姓さんであった教祖様が日々の生活の中で体験されたことがたとえ話としてよく出てきます。そのたとえ話ももうしばらくすると、おっしゃっていることが分からない、体験したことがないという人も出てくるんだろうなと思います。 私がつい最近体験したことで全くその通りだなと思った教えがあります。...
「人間は生き通しが大切である。生き通しとは死んでから後、人が拝んでくれるようになることである」(近藤ツルの伝え) 本日は3月1日に没後30年を迎えます愛子姫の話をさせて頂きます。 まずは、金光教の教師としての信心の姿、そして大場愛子の人間としての魅力、母としての姿を話させて頂きます。...
みな、病気の名前や病気のもとは不思議によく知っているが、おかげの受けられるもとを知らない。病気のもとよりは、おかげのもとをたずねてみよ。(尋求教語録34) 今年の教会新年会に参加された方が披露した老人の特徴を詠んだ川柳の一節に「趣味 病気」と言うのがありました。...
お道には、読むだけで腹落ちする素晴らしい御教え(教祖ご理解)がたくさんありますが、「信心は年が寄るほど位がつくものじゃ。信心すれば一年一年有難うなってくる」との御教えは、私自身中々理解出来ないものでした。何故かと言うと、御教えの中の「位」という言葉がどういう意味なのか今ひとつ理解が進まずにおりました。そうした中、昨年8月に教会長先生から背中を押して頂き、輔教研修会に65歳にして初めて参加させて頂きました。御本部での研修前の僅かな時間に教徒社に寄らせて頂き、何気なく教典をめくっておりましたら、目に飛び込んできたのが、この御教えでした。そこには、何と前文があったのでした。「賃(金)をとってすることは、若い時には頼んでもくれる。年寄っては頼んではくれぬぞ」とのお言葉があったとは、自らの不勉強を猛省いたしました。 日本も超高齢化社会と言われるようになって久しいのですが、これまで60歳と言われた定年はいまや65歳となり、私の会社の仲間も定年を迎えることとなりました。定年後に何か仕事をしたいと思っている人は多いようです。では、どのような仕事が可能かということになると突然迷ってしまいます。今までの職場で給料は下がっても、定年を延長して働きたいという人もいるでしょう。あるいは新しい仕事に就く、さらに新しく仕事を始める人もいると思います。また、ボランティアで役立ちたいと思っている方も多いと思われます。 しかし日本では重要な職、給与の良い仕事に空きがないのが現状です。そうなると給料は低い別の仕事で働き続けるということになります。日本のサラリーマン人口は社会人労働者の約90%と言われているわけですから、これからも毎年同じような課題を抱える人が次々に定年制という制度により生み出されることになります。またボランティア活動も、趣味に生きる事を選択した場合も、朝から晩までその生活に浸りきるということは大変難しいことです。このように考えると定年後の人生は誰にとっても大変難しい面を多く持っていて、楽な定年後は無いと言っても過言ではなさそうです。しかし、いかに楽であろうと、そうでなかろうと定年後の二十年、二十五年を過ごして行かなくてはなりません。その時期を悶々と不平不満ばかり言って暮らせば、家庭は暗くなり夫婦の間に溝が出来ます。つまり定年後の問題はどうしても解決しなくてはならないのです。 私が最近、思うことはサラリーマン生活で身についた無意識のうちに勝った負けた、追いついた追い越されたという競争原理の中で幸不幸を判断してしまう、常に他者と比較する癖がついてしまっているという事が問題なのではないかということです。 定年後の難しさは人と比較する癖が抜けないから、人と自分を比較して幸不幸を論じる生き方になってしまう。そこに心の安定はないと思います。 そこで大事なことは、定年になって後の生き方をして心の安定を図るということではないでしょうか。それは、信仰によってしか得られない道なのではないかということです。神社仏閣参りとかそういう信仰ではなく、心を磨く、信心生活を進めさせて頂くということなのではないでしょうか。例えば人の役にたつことに生き甲斐を求めるようにすれば、今している仕事、ボランティア、趣味も意味を持つようになります。そうすれば如何なる場所でも喜びに満ちた生活が出来るということです。出来れば、65と言わず40代、50代と早いうちから教会に足を運ぶことで、心が落ち着き、お道のお話を聴くことで心が洗われ、力がみなぎってきます。そうすると年が寄るほど位がつき、一年一年ありがたくなってくるということだったのです。 改めて御教えの深さ、有難さを学ばせて頂きました。(綿引宏行)
物事の最重要度や最優先度を表現するときに「一丁目一番地」という表現を用いることがあります。たとえば政治における一丁目一番地は政権の国民にたいする信頼度であると思いますが、いま政界は裏金問題でこの政治の一丁目一番地が大きく揺らいでおり大きな混乱が生じております。では信心の一丁目一番地とは何でしょうか。...
信じること、祈ること 今日は、「信じること」と「祈ること」についてみ教えを中心にお話をさせて頂きます。 まず、「信じる」ということはどういうことでしょうか。...